福岡大空襲:今に息づく福岡大空襲のモニュメントと歴史

歴史

太平洋戦争の末期には、日本各地が戦場となりましたが、福岡でも米軍による大規模な空爆がありました。

総務省のHPより

昭和20(1945)年6月19日、マリアナ基地を発進したB29は、九州の行政、経済の中心である福岡市の工場、港湾、鉄道などを攻撃目標として、九州南部より分散北上し、有明海から佐賀県、背振山地を越えて西南部方面から本市上空に侵入した。221機といわれるB29の反復攻撃は、午後11時10分ごろから翌20日の午前1時ごろまで続き、約2時間にわたる空襲で、市の繁華街をはじめ、主要な地域を殆ど焦土と化した。

6月19日夜、10時ごろに警戒警報が発せられ、やがて警報は空襲に変わった。間もなく夜空にB29が2~3機不気味な爆音を響かせ、探照燈が機影を追うなかで高射砲が散発的に炸裂した。そして、始め市内の東部ならびに西部の両地区に焼夷弾が投下され、発生した火災を目標に、後続機がその中間に投弾した。少数機編成で次々に飛来するB29、夜空にきらめきながら油脂焼夷弾の雨が、市の中心部を始め、市南西部方面にまで降り注ぎ、全市は火の海に包まれ、約2時間にわたる空襲で、伝統ある福岡の街は一望の焦土と化した。

被災面積は3.78km2に及び、被災戸数1万2,693戸、被災人口6万599人を数え、死者902人、負傷者1,078人、行方不明244人を出した。西部軍関係の施設を始め、官公庁、学校、会社、工場、商店街から一般民家に至るまで、多数の建物が被弾炎上し、交通、通信、電気、ガス、水道などの公共施設も甚大な被害を受け、都市としての機能は壊滅的な状態に陥った。劫火の中に肉親や住まいを失った人々にとって、忘れることのできない悪夢の一夜であった。

市の中心部の繁華街を始め、主要な地域を殆んど焦土と化した。東は御笠川より、西は樋井川迄延長約5km。

北は博多、福岡の両港の海岸線から、南は櫛田神社、大濠公園の線迄幅1.8kmの区域は殆ど全部(御笠川左岸沿い幅200mから500m、南北800m並びに西公園より西側、市内電車以北の海岸沿いと樋井川右岸250m残し)焼失した。

 その他、西鉄環状線、城南線沿いの柳町、薬院出口、平尾、六本松、今川橋の数箇所が、幅250m長さ400mから幅200m長さ500m程度の区域を焼失した。

圓應寺(円応寺) 簀子地区

圓應寺が位置する簀子(すのこ)地区は、福岡大空襲のなかで奈良屋地区に次いで多くの死傷者を出した地域でした。地区全体の約9割が焼失し、176名もの尊い命が犠牲となりました。

簀子小学校と隣接する圓應寺境内の赤レンガ塀の脇に、福岡大空襲の際にお亡くなりになった方の中で、引き取り手がなかったご遺体を埋葬しました。
その二年後、昭和22年6月19日にその場所に建立されたのが「戦災死者供養塔」でした。ここからこの戦災死者供養塔のみもとで福岡大空襲慰霊祭が始まりました。「無縁仏地蔵尊(三界萬霊塔)」は、空襲の悲惨な犠牲者を弔うために戦後になってから建立されました。

福岡市役所でも「市戦没者合同追悼式」を6月19日にやっています。福岡県では、「福岡県戦没者追悼式」を8月15日に福岡武道館で行っています。また、福岡縣護国神社でも戦没者追悼式が行われます。

戦災記念碑 冷泉公園 

福岡大空襲の犠牲者らを悼み、福岡市博多区の冷泉公園に「戦災記念碑」として石塔(高さ約10メートル)が建立されました。これは、地元住民や遺族会などが65年に建て、中心部には空襲などで犠牲となった約1300人の名前が書かれた板が納められています。そして、毎年6月、追悼式が営まれています。

ただ、老朽化で倒壊の危険があるとして解体・撤去されるようです。

戦災地蔵尊 沖濱稲荷神社

沖濱稲荷神社(福岡市博多区古門戸町3-8)境内には、昭和25年(1950年)6月19日に建立された戦災地蔵尊が祀られています 。この地蔵尊は、福岡大空襲(昭和20年6月19日)で犠牲となった地域の人々の冥福を祈念し、平和を象徴する追悼施設として建立されました。

旧十五銀行福岡支店 博多座

避難所であった旧十五銀行福岡支店(現在の博多座の立地)の地下室は、停電による扉の不作動で避難民が閉じ込められたうえ、空襲の高熱で水道管が破裂。熱湯と化した上水が地下室に流れ込み、62人が熱死するという惨事も起きた。後日行われた遺体搬出作業には、当時佐世保相浦海兵団輸送班員であった村田英雄も携わった。【Wikipediaより抜粋】

博多港引揚記念碑(那の津往還)

空襲で甚大な被害を受け、焼け野原となった福岡ですが、終戦後、博多港は海外からの国内最大級の引揚港となりました。昭和20年10月から約1年半の間に、中国大陸や朝鮮半島、東南アジアなどから約139万人もの人々が博多港に上陸し、日本の土を踏みました。また、約50万人の在日外国人の方々がここから故郷へと帰還していきました。
1996年3月に、中央ふ頭(福岡市博多区沖浜町)に建立されている「博多港引揚記念碑(那の津往還)」は、敗戦の失意の中から立ち上がった人々の平和への願いと、福岡の復興の歩みを象徴する場所として、静かに博多湾を見つめています。

終わりに

数多の命と街の歴史を一瞬にして奪った昭和20年6月19日の夜から、時は流れました。焼失した街並みは復興を遂げ、今の賑やかな福岡の街へと姿を変えましたが、それぞれの史跡や記念碑、そして語り継がれる悲劇の記憶は、あの夜に何があったのかを静かに今に伝えています。失われた命を悼み、二度と繰り返してはならない平和の尊さを心に刻むための、大切な記録となっています。

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