倭国の玄関から国際都市へ ― 福岡3000年の軌跡

歴史

私たちは、なぜ福岡の地から日本の歴史を語るべきなのでしょうか。

それは、日本列島が辿ってきたすべての文明的な軌跡が、まずこの「海の向こうに最も近い場所」で始まったからです。古代より、北九州は稲作や鉄器、文字といった最新の文化を受け入れる「倭国の玄関口」という地理的な宿命を背負い続けてきました。

時が流れ、その玄関口は外交の最前線となり、やがて巨大な商都へと変貌を遂げます。福岡の歴史を深く掘り下げると、そこには常に、大陸との交流がもたらす繁栄と、外敵に備える試練という二つの力が交錯していました。

3000年の時を超え、国際都市へと進化を続ける福岡の「地の運命」を、弥生時代から追いかけます。

縄文時代 (約1万3千年前〜紀元前400年)

板付遺跡板付遺跡弥生館

時期:紀元前900年〜紀元前400年ごろ(弥生時代草創期〜前期)場所:福岡市板付

縄文時代晩期(約3000年前)に水田跡が発見されており、これは日本最古級の稲作跡

奴国の前身だそうです。つまり福岡の始まりであり、日本の始まりですね。

弥生時代 650年(紀元前400年~紀元後250年)

日本列島に人が流入したのは、北からと南からと朝鮮半島経由での流入で、一番多いのが朝鮮半島経由です。ということで、日本の文明的な歴史は、朝鮮半島を経由して北九州に始まったと言っても言い過ぎではないかもしれません。

弥生から古墳時代にかけての北部九州は、伊都国・奴国・筑紫国などの地域王権が存在し、大陸との交流を主導していました。ここは「倭国の玄関口」として、稲作や金属器などの新しい文化や技術が最初に流入した地域です。

この時期、特に重要な出来事として知られているのが「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)金印」の授与です。西暦57年、現在の福岡平野を中心に栄えた奴国が、中国の後漢に使者を送り、光武帝から金印を授けられました。これは、当時の北部九州が大陸と直接外交を行うほど発展していたことを示しています。

この金印は志賀島で発見され(志賀島の金印公園にレプリカが展示)、実物は福岡市博物館に所蔵されています。北部九州が当時、政治的にも文化的にも日本列島の中心的な地位にあったことを象徴する遺物といえます。

吉野ヶ里遺跡:弥生時代の象徴的な遺跡です。

時期:紀元前500年〜紀元後300年(弥生時代中期〜後期)場所:佐賀県神埼市(福岡市から約40km、筑後川流域)

吉武高木遺跡:やよいの風公園

時期:紀元前200年〜紀元0年(弥生時代の中期後半)場所:岡市西区吉武

三雲・井原遺跡:伊都国歴史博物館

時期:紀元前100年〜紀元後100年 (弥生時代後期)場所:福岡県糸島市(「JR周船寺駅」バス停 コミュニティバスはまぼう号(片道200円、約11分)

大陸から人が往来した唐津から博多への通り道(唐津街道)から2~3㎞離れた山に囲まれ、川沿いの糸島平野にあります。

須玖岡本(すぐおかもと)遺跡:春日市奴国の丘歴史資料館 資料館紹介動画

時期:紀元前100年〜紀元後100年 (弥生時代後期)場所:福岡県春日市

ここも山に囲まれ、那珂川上流の福岡平野南部(筑紫平野北端)にあります。

平原遺跡:平原歴史公園

時期:紀元前200年〜紀元後200年(弥生時代後期〜古墳時代前期)場所:福岡県糸島市

野方遺跡:野方遺跡住居跡展示館

時期:紀元前100年〜紀元後100年(弥生時代後期〜古墳時代前期)場所:福岡市野方

博多遺跡群

博多遺跡群は、福岡県福岡市博多区、JR博多駅北側の南北約1.6 km・東西約0.8 kmの砂丘地帯に広がる、弥生時代から現代に至るまでの多時代・重層的な遺跡群です。地形的に那珂川と御笠川に挟まれ、海からのアクセスがよく、古代から物流の中心として発展しました。

九州国立博物館:大宰府にあるこの博物館は、主に古代から室町時代までの展示品が多いです。

弥生時代は、「川のそばで稲作を始める → 豊かさが格差と争いを生む → 安全な高台に移る → 権力と信仰が集中する」という流れで発展した時代です。

つまり「自然立地型集落 → 防御立地型集落への転換」が弥生時代の大きな特徴です。

また、縄文時代は狩猟・採集中心で、食料を貯めることができず、みんながほぼ平等だった。
弥生時代になると稲作が始まり、米を貯められるようになって富の差が生まれ、やがて支配者が現れた。つまり「貯められない社会(平等)から、貯められる社会(格差)へ」という変化が、縄文から弥生への大転換です。

古墳時代 約340年(250~592年)

古墳時代(3〜7世紀)になると、政治・王権の中心は近畿(ヤマト政権)へ移動しました。北部九州は弥生時代には中心だった(伊都国・奴国など)が、古墳時代には「外交の前線基地」的な役割に変わります。そのため、王墓級の巨大前方後円墳は造られず、地方豪族レベルの中規模古墳が主流になります。

奴国の国が発展して筑紫国(つくしのくに)が2~5世紀に成立し、那珂川流域から御笠川・筑紫平野一帯に支配が及ぶようになり、広域的な稲作地帯をまとめる勢力へ成長。筑紫は「筑(つく)=開く、造る」「紫(し)=土地・国」を意味し、「拓けた大地=国土全体」を指す広域的な名。

また、筑後川の恵みを受ける筑紫平野が大規模農業に適していたことで、山門国(やまとこく)も現在の八女市に5~6世紀に誕生しました。そして、筑紫国も実質的に影響下に置いていました。

岩戸山古墳:岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」 5〜6世紀、筑紫地方を支配したのが「筑紫君磐井(いわい)」で、彼の墓とされる

時期:紀元後500年ごろ(古墳時代後期)場所:福岡県八女市

筑紫君磐井は、6世紀初頭に九州北部一円を支配するほどの力を持っていました(「博多湾ルート」と「有明ルート」の両方を掌握)。
そして、大和政権が朝鮮半島(任那)への出兵を進める際、磐井はこれに九州王として反発し、九州を独立させようとしました。527年、磐井は大和政権の命令を拒み、兵を挙げます(磐井の乱)。しかし、戦いに敗れ、山門国は消滅しました。

仏教が日本に伝わったのは、6世紀の欽明天皇の時代(538年ごろ)とされていますが、実際に最初に仏教が上陸したのは北部九州、現在の福岡・太宰府一帯と考えられています。百済など朝鮮半島からの使節が最初に到着するのは博多湾周辺であり、そこで仏像や経典が受け取られたのが最初の伝来でした。

飛鳥・奈良時代 200年間(593~793年)

飛鳥時代から奈良時代にかけて、中央のヤマト政権が律令制によって地方を直接支配する体制を整える中で、北九州は「地方の一国」として国家の枠組みに組み込まれました。
しかし、660年の百済滅亡と663年の白村江の戦い(博多から4万人,400隻)を経て、九州北部は外敵に備える防衛の最前線となりました。この時期には太宰府周辺で水城・大野城・基肄城(基山)などの要塞が築かれ(山城は“戦う場所”ではなく、“負けないための避難・指令・監視の拠点”)、北九州(筑前・筑後)は都を守る盾の役割を担いました。

奈良時代に入ると、中央政府は太宰府を九州全体の外交・軍事・監察を統括する拠点として整備し、北九州(筑前国・豊前国)はその管轄下で地方行政区として再編されました。遣唐使や新羅使の船は博多湾や宗像沖など北九州沿岸から出発し、この地域は日本の「国の表玄関」として、外交や防人、航路の要として重要な役割を果たしました。

大宰府

太宰府は、7世紀後半(白村江の戦いの直後・664年ごろ)に設けられた、九州を治め外国との外交と防衛を担った古代日本の西の都(地方政府)です。西日本の政治・外交・防衛を統括する“地方首都”でした。

観世音寺

観世音寺(かんぜおんじ)は、福岡県太宰府市にある九州最古級の大寺で、670年頃に天智天皇の発願によって建立が始まり、奈良時代初期(718年頃)に完成したと伝えられています。当時の観世音寺は、東大寺に並ぶ「国家仏教の西の拠点」として計画され、五重塔や金堂・講堂を備えた九州最大の伽藍を誇りました。その目的は、外国との玄関口であった太宰府の地で、仏の力によって国家と人々を守る「鎮西国家寺院」を築くことでした。現在残るのは平安時代後期に再建された講堂や仏像のみです。今でも日本最古級の国宝級梵鐘の除夜の鐘の行事をしています。

宗像大社は、福岡県宗像市にある日本最古級の神社で、沖ノ島(訪問不可)・大島・田島の三宮から成ります。
古墳時代に海の守り神として崇められ、奈良時代には国家の大社として記録されました。
沖ノ島の出土品は日本の対外交流と信仰の証で、宗像大社は「海を介して世界とつながった古代日本の象徴」とされています。

平安時代 391年(794〜1185年)

鴻臚館

鴻臚館(こうろかん)は、奈良時代の末(8世紀後半)に博多湾岸に設けられ、平安時代初期(9世紀ごろ)に本格的に整備された外国使節や商人を受け入れるための国際交流施設です。唐・新羅・渤海などからの使節が滞在し、当時の日本における外交と貿易の玄関口となりました。

復元が2027年度中に完成予定です。

鎌倉時代 148年(1185〜1333年)

鎌倉時代の後半、モンゴル帝国(元)、フビライハンは日本を服属させようとし、1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の二度にわたり大軍を送りました。これが「元寇(げんこう)」です。最初の文永の役では、博多湾沿岸に上陸した元軍が激しく戦いましたが、暴風雨などにより撤退しました。その後、再侵攻に備えた鎌倉幕府は、博多湾一帯の海岸線に「元寇防塁(げんこうぼうるい)」という長大な石の防壁を築かせました。

この防塁は高さ約2m、幅3m前後、総延長約20kmにも及び、当時の御家人や地元武士たちが動員されて建設したものです。7年後の1281年、元軍は再び博多湾に来襲しましたが、防塁によって上陸を阻まれ、さらに暴風雨(いわゆる「神風」)によって大半の船が沈没し、再び敗退しました。

この元寇防塁跡は現在も福岡市西区今津・百道・志賀島などに一部が残っており、鎌倉幕府による国防の象徴として知られています。

博多祇園山笠:1241年頃、博多で疫病が流行した際、承天寺の開祖・聖一国師(しょういちこくし)が、祇園社(現在の櫛田神社)の神に祈願し、町人たちが清めの水をまいて街を回ったのが始まりとされています。

うどん・そば:福岡市博多区にある承天寺が発祥の地とされています。鎌倉時代の僧・聖一国師(しょういちこくし/円爾)が、1241年ごろに中国・宋から製粉や麺づくりの技術を持ち帰り、この承天寺でそれを広めました。ここで初めて日本風のうどんやそばが作られたことから、承天寺は「うどん・そば発祥の地」と呼ばれています。福岡の水は特に軟らかい軟水で、グルテンが強くなりにくいので、やわらかいうどんになりました。

室町・安土桃山時代 267年(1336~1603年)

室町時代の後半から戦国時代にかけて、博多は少弐氏(しょうにし)(筑前・肥前)・大内氏(周防・長門)・大友氏(豊後)・島津氏(薩摩・大隅)などの有力大名の争いに巻き込まれ、何度も焼け落ちました。もともと貿易港として栄えていた博多は、九州支配の要衝でもあったため、各勢力が奪い合いを繰り返したのです。とくに1550年代の大内・大友の対立、そして1569年に大友宗麟軍が博多を焼き討ちしたことで町は壊滅。さらに1570年の耳川の戦いで大友氏が島津氏に敗れると、博多の支配体制は崩壊し、港は荒廃しました。貿易も止まり、商人たちは堺や長崎へ逃れて、かつて「日ノ本一の商都」と呼ばれた博多は完全な廃墟となりました。

1587年の豊臣秀吉による「博多の再整備は、戦乱で焼け野原になっていた博多を商都として立て直す都市改革です。具体的には、①千利休らが関わったとされる碁盤目状の町割りで街路を再編し、②火災・戦乱拡大を防ぐため寺社を集中的に配置(寺町化)して防火帯を設け、③港・倉庫の復旧と河川筋の整備で物流機能を回復し、④楽市的な商業自由・関所や特権の抑制で取引を活性化、⑤神屋宗湛・島井宗室ら豪商を呼び戻して資金とネットワークを注入、⑥町人自治(年行司など)を整えて商人主導の運営を認めました。これにより博多は短期間で国際交易の商都として復活し、のちの福岡(武士の城下)と“博多(商人町)”が並立する基盤ができあがります。

太閤道」豊臣秀吉が朝鮮出兵時に、博多から肥前・名護屋城へ向かうために整備した軍用道

1591年、豊臣秀吉は朝鮮出兵のために佐賀県唐津市に名護屋城(なごやじょう)を築きました。全国の大名に出陣を命じ、約16万の兵と700隻以上の船が九州北部に集結。名護屋城はその本陣・司令部として機能し、周囲には130を超える大名の陣屋が立ち並びました。博多は兵糧・物資の補給拠点として賑わい、全国から商人や職人が集まりました。1592年に朝鮮へ侵攻しましたが、戦線は長期化し、1598年の秀吉の死によって撤退。名護屋城もその役目を終え、まもなく廃城となりました。

博多どんたく港まつり:室町時代、博多の町人が正月に感謝の練り歩き「松ばやし」を行ったのが始まりです。江戸時代には藩により一時禁止されましたが、明治時代に復活。オランダ語の休日を意味する“Zondag(ゾンダッハ)”から「どんたく」と呼ばれるようになりました。

江戸時代 265年間(1603 〜 1868年)

1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に味方した黒田長政(くろだながまさ)は、その功績により筑前一国・52万石を与えられました。長政は翌1601年、戦乱で荒れていた博多の西側、福崎の丘に福岡城(別名舞鶴城)の築城を始めます(1609年完成)。これが現在の福岡市の中心「城内・大濠公園」一帯です。

城下町は「福岡」と名づけられましたが、その由来は、黒田家の先祖の地・**備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)**にちなんだものです。一方、古くからの商人の町「博多」はそのまま残され、以後「武士の町・福岡」と「商人の町・博多」が並び立つ独特の二重都市が形成されました。

唐津街道:黒田藩が参勤交代の時に博多から唐津まで行くのに整備した元「太閤道」(現国道202号線)福岡宿(城下)├ 唐人町(町場)├ 西新・黒門(町場)├ 荒江(間の町)├ 原宿(宿場 四つ角 諏訪神社あたり)├ 室見(小村)├ 今宿(町場)├ 前原宿(宿場)├ 浜崎宿(宿場)└ 唐津宿(宿場・城下)

友泉亭:友泉亭は、江戸時代中期の1754年ごろ、福岡藩6代藩主・黒田継高がつくった別邸です。池を中心にした庭園「池泉回遊式」で、湧き水を楽しむ静かな場所として「友泉」と名づけられました。

1799年、城下町の大名に、黒田藩が「教育こそ国を支える」と考えてつくった藩校が修猷館です。

明治・大正時代 58年(1868~1926年)

明治時代に入ると、福岡は藩政から近代都市へと大きく転換しました。1871年の廃藩置県で福岡藩が廃止され、福岡県が誕生。行政の中心は福岡に、商業と港湾機能は博多に受け継がれました。

同時期、筑豊地方では筑豊炭田の開発が進み、日本最大の石炭産地として全国の工業を支えました。その石炭を燃料にして、1897年に建設が始まった官営八幡製鉄所(北九州)が1901年に操業を開始。中国や朝鮮半島から輸入した鉄鉱石を門司港経由で運び、筑豊の炭と結びつけて日本初の本格的製鉄を実現しました。

こうした「炭と鉄」の産業基盤の上に、長崎では天然の深い港を活かした造船業が発展し、九州北部全体が「掘る(筑豊)・つくる(八幡)・運ぶ(長崎・博多)」という産業の循環構造を形成しました。

その中で福岡は、九州経済のビジネス・商業の中心地として急速に発展します。企業の本社や銀行、商社が集まり、情報と人が流れる都市へと成長しました。大正時代には市電・電灯が整備され、天神・中洲が商業地として活況を呈し、**「行政の福岡・商業の博多・工業の北九州・資源の筑豊」**という構図が確立しました。

福岡は、日清’1894~5年)・日露戦争(1904~5年)・韓国併合(1910~45年)を通じて「大陸への玄関口」として発展しました。博多港や門司港が軍事輸送・補給の拠点として整備され、鉄道や道路などのインフラが急速に整えられました。陸軍第12師団の設置により人と資金が流入し、経済が活性化。さらに戦傷兵治療をきっかけに医学研究が進み、九州帝国大学(現・九州大学)が誕生しました。こうして福岡は、軍都としての整備を土台に、商都・学都へと成長していったのです。

昭和時代 63年(1926〜1989年)

昭和初期の福岡は、引き続き九州経済の中心都市として発展していました。博多港は東アジアとの貿易港としてにぎわい、銀行・商社・百貨店などが立ち並び、天神や中洲が繁華街として拡大します。
一方で、1930年代から日本全体が戦時体制に入ると、福岡・北九州の工業地帯は軍需生産の拠点となり、八幡製鉄所は軍艦や兵器用の鉄を供給しました。筑豊炭田も燃料供給の要として稼働を続けます。1941年、日本陸軍は大陸への最短距離、平坦な地形、博多港や鉄道との連携の良さから、板付を軍用飛行場の拠点に選びました。これがその後の福岡空港になりコンパクトシティの一部を構成します。
しかし、終戦間際の1945年6月、福岡大空襲により市街地は大きな被害を受け、博多・天神の多くが焼失しました。

戦後は、焼け野原からの再建が始まりました。しかし、朝鮮戦争(1950〜1953年)特需が起き、福岡はアメリカ軍の後方基地として機能し、港と工業が活況を取り戻したことで、戦後の復興と国際都市化の原動力となりました。

復興期の福岡は九州最大の都市として再び商業と交通の拠点となり、博多駅の移転・拡張(1963年)福岡空港の整備が進みます。
この時期、北九州は依然として重工業の中心でしたが、炭鉱が次第に衰退し、福岡はサービス業・流通・行政の中枢都市としての地位を強めていきます。

サザエさん:百道浜に近い唐人町に住んでいた長谷川町子が、1946年に福岡日日新聞(現西日本新聞)に「サザエさん」の連載開始。

博多明太子:終戦直後の中洲界隈で、釜山から引き揚げてきた商人たちが「辛子入りのタラコ」を作り始めました。その中で特に有名なのが、ふくやの創業者・川原俊夫。彼は釜山で食べた味をもとに、1949年に日本式の明太子を完成させます。

もつ鍋:戦後の炭鉱労働者の料理(1950年代後半)筑豊の炭鉱で、安くて栄養のある内臓肉(もつ)をニラ・ニンニクで煮たのが始まり。

平成時代 30年(1989~2019年)

戦後の復興と高度経済成長を経て、平成の幕開けとなった1989年、福岡では**「アジア太平洋博覧会-よかトピア」が開催されました。これは市制100周年を記念する博覧会で、現在の百道浜(ももちはま)地区**の街並みを生み出した大規模な都市開発でした。それとともに国際化が進み、九州の中心からアジアとつながる創造都市へと成長しました。

この時のシンボルが福岡タワーです。

まとめ ― 大陸に最も近い街、福岡 ―

日本列島の西端に位置する福岡・北部九州は、古代から現代まで一貫して「海の向こう」と最も近い場所にありました。
この地政学的な近さこそが、福岡のすべての歴史を形づくってきた原動力です。

弥生の時代には、朝鮮半島を経て稲作や金属器、文字といった文明が最初に渡来し、北部九州は日本文化の出発点となりました。
飛鳥・奈良の時代には、大陸情勢の変化に直面し、防衛と外交の最前線として太宰府が築かれました。
中世には、博多が東アジア交易の中心として栄え、戦乱に焼かれてもなお立ち上がり、
近代以降は「炭・鉄・港」が結びつく産業圏として、再び日本を支えるエネルギー源となりました。

そして現代の福岡もまた、アジアの玄関都市として、経済・文化・人の交流を絶えず受け入れています。
その発展も繁栄も、そして試練も、すべては**「大陸に最も近い」という地の宿命と可能性**の中にありました。

福岡検定 っていうのがあるそうです。いつか受験します。

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